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雲晴寺概要

雲晴寺概要

雲晴寺概要

各種法要から坐禅会、縁結びまで、人々に寄り添う禅寺

南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義公の供養塔があり、明石藩の家老を奉る菩提寺です。境内には二天一流兵法の開祖、宮本武蔵作の庭や武蔵の孫弟子の墓石があります。 子宝のご縁を結ぶといわれる地蔵菩薩像も多くの方に親しまれています。 交通の便も非常に良く、駅からも平坦で歩いてお参りに来ていただけます。歴史と伝統を重んじながら、現代社会に対応した永代供養墓や縁結びイベント『お寺でGOEN(ごえん)』も提案しています

住職 第25世 五十川 幸雄(いそかわ こうゆう)

1943年生まれ。1974年雲晴寺住職に就任。1992年客殿落慶、山門修復。1996年稲荷堂落慶。2004年に本堂落慶など、太平洋戦争の空襲により山門以外の伽藍や多くの寺領を失った雲晴寺を一から再建。曹洞宗兵庫県第一宗務所所長や明石仏教会会長などを歴任。権大教師。

皆さんこんにちは。当山は明石市の中心部にありながら、奥に広い境内は静かな環境でゆっくりお参りしていただけます。各種法要から永代供養、坐禅会、縁結びまで、皆さまに寄り添う禅寺を目指しておりますので、お気軽にご来山ください。

副住職 五十川 幸導(いそかわ こうどう)

1978年生まれ。雲晴寺に生まれ8歳で得度し、学業や書道を学ぶ一方で幼少期よりスポーツに熱中、プロゴルファーを目指しゴルフ場に所属しながらプロテストを受けた過去もある異色の経歴。怪我の為、その道を断念し大本山総持寺へ安居。約4年半修行し、2008年雲晴寺副住職に就任。長い禅修行と過去のアスリート経験をいかし、坐禅会を主催。毎月100名近い参禅者が訪れ禅と生き方を布教する。曹洞宗青少年教化員。興禅会副会長。明石仏教青年会事務局長。第2期「未来の住職塾」卒業。

時代とともに変化する私たちの暮らしのなかで、単にお葬式や新しいお墓を建立するだけでなく、家族や血縁を超えて人々が集い、生き方について語り合い、安心できる場の提供をお寺が出来ればと思っております。

雲晴寺の歴史

寛永16年(1639)明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様)が南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義公(桃源院の夫)の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やし、加納(岐阜県)より能山侃藝和尚(当寺開山)を招き供養されました。寺名は里見忠義公の戒名 雲晴院殿心叟(窓)賢凉大居士から雲晴寺と名付けられました。
慶長18年(1613)以前からここに寺院(現在のところ寺院名不詳)があって、それが雲晴寺の開山に利用されたことがわかっています。この慶長18年(1613)は本堂がわら葺きから瓦葺きに葺き替えられた年で、開基は信濃国出身の「牧野家」と伝えられています。
天和2年(1682)に越前松平より入封の藩主松平直明は、義理の母で松平直良(直明の父で徳川家康の孫)夫人清光院(豊姫)の位牌を当山に納めて永代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立葵」の家紋を与え当山の寺紋となりました。
雲晴寺は代々の藩主により寺領の保証や土地の寄附を受け、墓地の拡張などの整備が進められていくようになります。越前松平家の家老職を代々務めた「織田家」「津田家」や多くの藩士たちの菩提寺となり、墓地に眠る石塔がそれらの人たちの歴史を物語っています。
戦前は鐘楼堂、奥之院、茶室、坐禅堂など伽藍が整った広大な寺領を持つ寺院でありました。

本堂裏には戦前まで宮本武蔵作の庭があったが昭和20年7月の大空襲にて、惜しくも当山は山門を残して全焼し、爆撃により傷んだ庭は戦後の復興事情により埋められてしまいました。平成15年新本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門と夫人の墓石が発見され武蔵ゆかりの寺院であることがいえます。
又、初代内閣総理大臣、伊藤博文(伊藤俊輔)は慶応二年(1866)その当時の住職が長州藩の武士出身だった縁で当山に滞在、幕末の重大な役目を担っていたと言われています。

里見忠義公と雲晴寺

里見安房守忠義は、安房国(千葉県)館山12万石の藩主であったが、慶長19年(1614)奥方の実家である大久保家にかけられた幕府への謀反疑惑が里見家にもおよび、伯耆国(鳥取県)倉吉へ国替えとなりました。忠義は無実を訴えたが聞き入れられず、元和8年(1622)に無念のうちに病死し、関東の名門里見家は断絶しました。忠義29歳でありました。この3ヶ月後に家臣8人が殉職し、彼らの法名に「賢」の文字が与えられ、後に「八賢士」と呼ばれるようになります。曲亭馬琴(滝沢馬琴)作の「南総里見八犬伝」は、この里見家断絶とその家臣をモデルにしたとされています。
里見忠義の奥方は、第四代明石藩主となる大久保忠職の姉で、夫忠義が亡くなると、弟忠職の元にいて、失意のうちに亡くなった忠義の菩提を弔っていました。大久保忠義は寛永16年(1639)に明石藩主となると、(岐阜県)加納の久運寺より能山侃藝和尚を伴って来て、姉(桃源院)と共に里見忠義の供養のために、当地にあった寺院を再興し、忠義の戒名、雲晴院殿心叟(窓)賢凉大居士から「雲晴寺」と名付けて保護されました。

雲晴寺の寺紋

越前松平より入封の藩主松平直明は、義理の母で松平直良(直明の父で徳川家康の孫)夫人清光院(豊姫)の位牌を当山に納めて永代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立葵」の家紋を雲晴寺に与えられ当山の寺紋となりました。

雲晴寺の寺紋

越前松平家と雲晴寺

天和2年(1682)に越前松平より松平直明が6万石で明石へ入封しました。これ以降、この越前松平家が明治維新に至るまで明石藩を治めることになります。
雲晴寺は代々の藩主により寺域の保証や土地の寄附を受け、墓地の拡張などの整備が進められていくようになります。そして越前松平家の家老職を代々務めた「織田家」「津田家」の菩提寺となりました。また、今枝氏など家老職を務めた重臣たちを始めとして、松平家に仕えた多くの家臣たちの菩提寺ともなりました。墓地に眠る石塔がそれらの人たちの歴史を物語っています。

宮本武蔵と雲晴寺

初代明石藩主、小笠原忠真は元和4年(1618)年より明石川東岸に新しい城と城下町を建設しました。
雲晴寺は、この時建設された明石城武家屋敷の東側、「大蔵門」の東(外堀の外)に位置し、周囲の3カ寺とともに、城下町東部における寺町を形成していました。

宮本武蔵庭園跡

この明石の城下町は当時小笠原忠真の客分であった宮本武蔵が設計し、城内の庭園設計も行ったことが記録に残っています。雲晴寺にも武蔵作の庭園がありましたが、戦争の爆撃により傷んだ庭は戦後の復興事情により埋められてしまいました。しかし、平成15年(2003)の新本堂建設に伴う発掘調査により、池の一部と「護岸を伴う島」の一部、その島へ渡るための「石橋」が確認され、広い庭園であったことが明らかとなりました。
現在は元の庭をいかしながら復元しています。
武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門と夫人の墓石などもあることから、武蔵との関連がある寺であったことが言えます。

伊藤博文と雲晴寺

初代内閣総理大臣、伊藤博文(俊輔)ゆかりの寺でもあります。
慶応2年(1866) 長州藩士伊藤博文は、譜代大名松平氏が治める明石藩の動静を探るため、この地に派遣され、当山に滞在しました。(昔は寺奥に茶室がありそこに潜伏したと伝承あり)当時の雲晴寺住職は、長州藩の武士出身であり、その住職によって、手塚又右衛門の馬丁として潜り込まされました。つまり間者であります。この年に行われた第二次幕長戦争(長州征討)に、幕府方の明石藩も出兵していた為、今後の動向を探る上でも伊藤の役目は重大であったと言えます。
ここで得た情報を次の寺へ、そのまた次の寺へ、というように数百キロ先の長州藩へと伝達したと伝えられています。