雲晴寺概要

雲晴寺概要
雲晴寺概要

雲晴寺概要

雲晴寺概要
雲晴寺概要

各種法要から坐禅会、縁結びまで、人々に寄り添う禅寺

各種法要から坐禅会、縁結びまで、人々に寄り添う禅寺

南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義公の供養塔があり、明石藩の家老を奉る菩提寺です。境内には二天一流兵法の開祖、宮本武蔵作の庭や武蔵の孫弟子の墓石があります。 子宝のご縁を結ぶといわれる地蔵菩薩像も多くの方に親しまれています。 交通の便も非常に良く、駅からも平坦で歩いてお参りに来ていただけます。金剛力士像が安置された仁王門が皆様をお迎えします。歴史と伝統を重んじながら、現代社会に対応した永代供養墓や縁結びイベント『お寺でGOEN(ごえん)』も提案しています

住職 第26世 五十川 幸導(いそかわ こうどう)

住職 第26世 五十川 幸導(いそかわ こうどう)

1978年生まれ。11歳で得度し学業を修める一方で、プロゴルファーを目指しプロテストを受けた過去もある異色の経歴。2004年、大本山總持寺へ安居。約4年数カ月修行し、2008年雲晴寺副住職に就任。2019年9月、住職に就任。長い修行と過去のアスリート経験を活かし、曹洞宗認可参禅道場主管として坐禅会を主催。一番多いときで100名近い参禅者が訪れる。また、企業や病院、学校やアスリートへの団体坐禅会も開催している。ほかにも縁結びイベントや東日本大震災チャリティーコンサートをお寺で行うなど、さまざまな方法で禅と生き方を広く伝えている。
曹洞宗教化指導員。曹洞興禅会会長、明石仏教青年会会長、事務局なども歴任。第二期「未来の住職塾」卒業。
禅・仏教の教えをやさしくひもとき、前向きに生きる支えとなる本、「今を生きる練習」を出版。

時代とともに変化する私たちの暮らしのなかで、単にお葬式や新しいお墓を建立するだけでなく、家族や血縁を超えて人々が集い、生き方について語り合い、安心できる場の提供をお寺が出来ればと思っております。

東堂(前住職) 第25世 五十川 幸雄(いそかわ こうゆう)

東堂(前住職) 第25世 五十川 幸雄(いそかわ こうゆう)

1943年生まれ。1974年雲晴寺住職に就任。1992年客殿落慶、山門修復。1996年稲荷堂落慶。2004年に本堂落慶など、太平洋戦争の空襲により山門以外の伽藍や多くの寺領を失った雲晴寺を一から再建。曹洞宗兵庫県第一宗務所所長や明石仏教会会長などを歴任。大教師。

皆さんこんにちは。当山は明石市の中心部にありながら、奥に広い境内は静かな環境でゆっくりお参りしていただけます。各種法要から永代供養、坐禅会、縁結びまで、皆さまに寄り添う禅寺を目指しておりますので、お気軽にご来山ください。

雲晴寺 その成立と概要

宗派・・・曹洞宗(そうとうしゅう)
山号・・・月江山(げっこうざん)
本尊・・・釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)
雲晴寺は慶長十八年(一六一三)に本堂がわら葺きから瓦葺きに葺き替えられたと伝承されています。 この年が雲晴寺の開基とされています。このずっと以前から、ここに寺院(現在のところ寺院名・宗派不詳)があって、それが雲晴寺の開山に利用されたことがわかっています。開基は信濃国出身の「牧野家」と伝えられています。
寛永十六年(一六三九)明石藩主大久保忠職公とその姉桃源院(東丸さま)が南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義公の菩提を弔うため、雲晴寺の伽藍を整備し寺領を増やし、加納(岐阜県)より能山侃藝大和尚(当寺開山)を招き供養されました。里見忠義公の戒名は 雲晴院殿心叟(窓)賢凉大居士と授けられました。
天和二年(一六八二)に越前松平より入封の藩主松平直明公は、義理の母で松平直良公(直明の父で徳川家康の孫)夫人清光院(豊姫さま)の位牌を当山に納めて永代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立葵」の家紋を与え当山の寺紋となりました。
雲晴寺は代々の藩主より寺領の保証や土地の寄附を受け、墓地の拡張などの整備が進められていくようになります。越前松平家の家老職を代々務めた「織田家」「津田家」や多くの藩士たちの菩提寺になり、墓地に眠る石塔がそれらの人たちの歴史を物語っています。戦前は鐘楼堂、奥の院、茶室、坐禅堂など伽藍が整った広大な寺領を持つ寺院でありました。
本堂裏には戦前まで宮本武蔵作の庭がありましたが、昭和二十年七月の大空襲にて、当山は山門を残して全焼し、庭も戦後の復興事情により埋められてしまいました。平成十五年本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門(固岳道隨居士)と夫人の墓石が発見されたことでも、武蔵ゆかりの寺院であることが言えます。
又、初代内閣総理大臣、伊藤博文(伊藤俊輔)は慶応二年(一八六六)、譜代大名松平氏が治める明石藩の動静を探るためこの地に派遣され、その当時の住職が長州藩の武士出身だった縁で当山に滞在し、その住職によって、手塚又右衛門の馬丁として潜り込まされました。つまり間者であります。この年に起こった第二次幕長戦争(長州征討)に、幕府方の明石藩も出兵していたため、今後の動向を探る上でも伊藤の役目は重大であったと言えます。
現在の雲晴寺は、二十五世悟道幸雄大和尚が平成四年に山門修復と客殿建設、平成十六年に本堂を再建し、戦災復興から立ち上がり、その意思を引き継ぐ第二十六世悟照幸導大和尚が、令和二年に仁王門を建立、歴史を守りながら、坐禅会や縁結び行事なども積極的に行い、人々に寄り添うお寺を目指しています。

里見忠義公と雲晴寺

里見安房守忠義は、安房国(千葉県)館山12万石の藩主であったが、慶長19年(1614)奥方の実家である大久保家にかけられた幕府への謀反疑惑が里見家にもおよび、伯耆国(鳥取県)倉吉へ国替えとなりました。忠義は無実を訴えたが聞き入れられず、元和8年(1622)に無念のうちに病死し、関東の名門里見家は断絶しました。忠義29歳でありました。この3ヶ月後に家臣8人が殉職し、彼らの法名に「賢」の文字が与えられ、後に「八賢士」と呼ばれるようになります。曲亭馬琴(滝沢馬琴)作の「南総里見八犬伝」は、この里見家断絶とその家臣をモデルにしたとされています。
里見忠義の奥方は、第四代明石藩主となる大久保忠職の姉で、夫忠義が亡くなると、弟忠職の元にいて、失意のうちに亡くなった忠義の菩提を弔っていました。大久保忠義は寛永16年(1639)に明石藩主となると、姉(桃源院)と共に里見忠義の供養のために、雲晴寺の伽藍を整備し寺領を増やし、加納(岐阜県)より能山侃藝大和尚を招き供養されました。里見忠義公の戒名は 雲晴院殿心叟(窓)賢凉大居士と授けられました。

雲晴寺の寺紋

越前松平より入封の藩主松平直明は、義理の母で松平直良(直明の父で徳川家康の孫)夫人清光院(豊姫)の位牌を当山に納めて永代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立葵」の家紋を雲晴寺に与えられ当山の寺紋となりました。

雲晴寺の寺紋

越前松平家と雲晴寺

天和2年(1682)に越前松平より松平直明が6万石で明石へ入封しました。これ以降、この越前松平家が明治維新に至るまで明石藩を治めることになります。
雲晴寺は代々の藩主により寺域の保証や土地の寄附を受け、墓地の拡張などの整備が進められていくようになります。そして越前松平家の家老職を代々務めた「織田家」「津田家」の菩提寺となりました。また、今枝氏など家老職を務めた重臣たちを始めとして、松平家に仕えた多くの家臣たちの菩提寺ともなりました。墓地に眠る石塔がそれらの人たちの歴史を物語っています。

宮本武蔵と雲晴寺

初代明石藩主、小笠原忠真は元和4年(1618)年より明石川東岸に新しい城と城下町を建設しました。
雲晴寺は、この時建設された明石城武家屋敷の東側、「大蔵門」の東(外堀の外)に位置し、周囲の3カ寺とともに、城下町東部における寺町を形成していました。

宮本武蔵庭園跡

この明石の城下町は当時小笠原忠真の客分であった宮本武蔵が設計し、城内の庭園設計も行ったことが記録に残っています。雲晴寺にも武蔵作の庭園がありましたが、戦争の爆撃により傷んだ庭は戦後の復興事情により埋められてしまいました。しかし、平成15年(2003)の新本堂建設に伴う発掘調査により、池の一部と「護岸を伴う島」の一部、その島へ渡るための「石橋」が確認され、広い庭園であったことが明らかとなりました。
現在は元の庭をいかしながら復元しています。
武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門と夫人の墓石などもあることから、武蔵との関連がある寺であったことが言えます。

伊藤博文と雲晴寺

初代内閣総理大臣、伊藤博文(俊輔)ゆかりの寺でもあります。
慶応2年(1866) 長州藩士伊藤博文は、譜代大名松平氏が治める明石藩の動静を探るため、この地に派遣され、当山に滞在しました。(昔は寺奥に茶室がありそこに潜伏したと伝承あり)当時の雲晴寺住職は、長州藩の武士出身であり、その住職によって、手塚又右衛門の馬丁として潜り込まされました。つまり間者であります。この年に行われた第二次幕長戦争(長州征討)に、幕府方の明石藩も出兵していた為、今後の動向を探る上でも伊藤の役目は重大であったと言えます。
ここで得た情報を次の寺へ、そのまた次の寺へ、というように数百キロ先の長州藩へと伝達したと伝えられています。